11月16日、祖母が86歳を迎えました。
同じ日、詩人まどみちお氏が102歳を迎えられました。
~詩集「かんがえる」より~
「言わずにおれなくなる」
言わずにおれなくなる。ことばでしか言えないからだ。
言わずにおれなくなる。ことばでは言いきれないからだ。
言わずにおれなくなる。ひとりでは生きられないからだ。
言わずにおれなくなる。ひとりでしか生きられないからだ。
「なんだ…」
なれるまでだ「わあ!」は
なれてしまえば「なんだ…」だ
わあ 怪獣! なんだ 犬か…
わあ UFO! なんだ 飛行機か…
わあ バオバブ! なんだ マツノキか…
わあ 10人殺し! なんだ 泥棒か…
なんだ 汚職か…
なんだ 公害か…
なんだ 戦争か 原爆か…
なんだ なんだ なんだ…
「もう すんだとすれば」
もうすんだとすれば これからなのだ
安楽なことが 苦しいのだ
暗いからこそ 明るいのだ
なんにも無いから すべてが有るのだ
見ているのは 見ていないのだ
分かっているのは 分かっていないのだ
押されているので 押しているのだ
落ちていきながら 昇っていくのだ
遅れすぎて 進んでいるのだ
一緒にいるときは ひとりぼっちなのだ
やかましいから 静かなのだ
黙っている方が しゃべっているのだ
笑っているだけ 泣いているのだ
ほめていたら けなしているのだ
うそつきは まあ正直者だ
臆病者ほど 勇ましいのだ
利口にかぎって バカなのだ
生まれてくることは 死んでいくことなのだ
なんでもないことが 大変なことなのだ
2011/11/19
2011/11/13
幻のCM
この3日間、音楽療法のスクーリングを受けてきました。
そのうちのひとつが、「スピリチュアル・ケア」という講義。
どこぞの牧師さんが講師でした。
「スピリチュアル」って何ぞや?
その牧師さんですら、まだ明確な答えを見つけられていないと言います。
しかし、「スピリチュアル・ペイン」は確かに存在すると断言されています。
肉体的、精神的、社会的な痛みが取り除かれても残る痛み。
それが「スピリチュアル・ペイン」。
たとえば、自分はなぜ生きているのか、自分の人生の目的とは、自分はどこへ行くのか等、答えのない世界に生きている人間の抱える痛み。
大なり小なり私たちが常に抱えて生きているもの=「不安」も、スピリチュアル・ペインなのかもしれない、と。
講義の最後で、その牧師さんは、「やはり3.11後、私たちが求めるものは“つながり”や“絆”であると思う」と、あるCMをプロジェクターで上映して講義を締めくくりました。
今年の3月12日、九州新幹線全線開通。
しかし、3.11の翌日であったため、このCMがお茶の間に流れることはなく、幻のCMとなったそうです↓↓
「あの日、手を振ってくれて ありがとう
笑ってくれて ありがとう」
そう伝えたい人が私にもいる。
普段は何気なく見逃してしまう瞬間に小さな喜びの数々が存在し、 溢れるばかりの幸せが見つかるものなのかもしれない。
そのうちのひとつが、「スピリチュアル・ケア」という講義。
どこぞの牧師さんが講師でした。
「スピリチュアル」って何ぞや?
その牧師さんですら、まだ明確な答えを見つけられていないと言います。
しかし、「スピリチュアル・ペイン」は確かに存在すると断言されています。
肉体的、精神的、社会的な痛みが取り除かれても残る痛み。
それが「スピリチュアル・ペイン」。
たとえば、自分はなぜ生きているのか、自分の人生の目的とは、自分はどこへ行くのか等、答えのない世界に生きている人間の抱える痛み。
大なり小なり私たちが常に抱えて生きているもの=「不安」も、スピリチュアル・ペインなのかもしれない、と。
講義の最後で、その牧師さんは、「やはり3.11後、私たちが求めるものは“つながり”や“絆”であると思う」と、あるCMをプロジェクターで上映して講義を締めくくりました。
今年の3月12日、九州新幹線全線開通。
しかし、3.11の翌日であったため、このCMがお茶の間に流れることはなく、幻のCMとなったそうです↓↓
「あの日、手を振ってくれて ありがとう
笑ってくれて ありがとう」
そう伝えたい人が私にもいる。
普段は何気なく見逃してしまう瞬間に小さな喜びの数々が存在し、 溢れるばかりの幸せが見つかるものなのかもしれない。
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